「大山編」からの続きです。
翌日、快晴の天気に恵まれる中、まず小田原城に行きました。
小田原城は昔、家族旅行で立ち寄った記憶はありますが、もう25年くらい前でしょうか。
最近、お城ブームもあり、全国のお城が再注目されているところですので、小田原城に久しぶりに行ってみました。
小田原城は桜の名所です。
まだ桜が十分に咲いていて、青空と白壁の城に桜が見事に映えていました。
小田原城は北条氏が5代100年にわたり拠点とし、難攻不落、無敵の城といわれました。
広大な敷地の城内には巨木もあちこちに茂り、パワースポットになっています。
日曜日ということもあり、何かのイベントなのか「甲冑隊」のメンバーが観光客をお迎えしていました。
ほら貝を吹いたり、陣太鼓をたたいたり、観光客と一緒に記念写真を撮ったりしています。
写真撮影の最後はみんなで「エイ、エイ、オー!」と鬨の声をあげます。
それがすごく盛り上がります(笑)。
「エイ、エイ、オー!」は元気が出る言霊ですね。
小田原城はビルの5階くらいの高さがあります。
中は近代的に整備され、各階に資料や武具などの展示があります。
最上階のバルコニーは回廊になっていて、ぐるりと一周できます。
相模湾、伊豆半島、真鶴半島、箱根の山々、大山など丹沢の山々が一望でき、360度の絶景です。
この壮大な城を建てた北条氏の栄華と権勢が想像できます。
次に、相模国一之宮・寒川神社に行きました。
寒川神社と前日参拝した比々多神社は、私は初めての参拝です。
山田は2003年の神業ツアー以来となります。
寒川神社は思いのほか、参拝客でたいへん賑わっていました。
相模國一之宮・寒川神社は全国唯一の「八方除」の神社とされ、全国各地から崇敬者が参拝するそうです。
創始は雄略天皇の時代で約1600年の歴史があり、朝廷をはじめ、源頼朝、武田信玄、徳川家代々、民間と幅広い信仰を受けてきました。
鎮守の森に囲まれた境内は広大で、拝殿にドーンと大きなしめ縄がかかり、間口が横に長い造りです。
「さすがに一の宮だな」と思われるほど立派な社殿で、境内は美しく整備されています。
拝殿の中には多くの祈願者が昇殿して、祈願を待っていました。
私たちがお参りする時にちょうど、太鼓が鳴りだし、神主さんの祝詞が始まりました。
八方除けの祈願者がこんなに多いのだなと実感しました。
寒川神社の御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)の2柱で、
寒川大明神と称されます。
社伝では、「寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方をご開拓になられ、
衣食住など人間生活の根源を開発指導され、関東地方文化の生みの親神様として敬仰されてきました」とあります。
また、江戸から見て南西(坤)の地に鎮座しており、江戸の裏鬼門をお護りする神社とされます。
「寒川」というのは出雲系の「氷川」であり、
サムカワヒコ・サムカワヒメは「スサノオノ尊・クシイナダヒメノ命」という、山田の話です。
武蔵国は氷川神社で、相模国は寒川神社になります。
この地域も出雲系の勢力範囲なのです。
ご祭神は2柱ですが、これだけの大きな神社なので、隠れ神、隠れ仏尊がたくさんいそうです。
実際、境内末社の宮山神社には、昔87社あった摂社・末社を合祀しています。
87社ですから、たくさんの神仏が本来はおられるわけです。
山田の話では、「合祀した神々がご祭神として表記されず、隠れ神となって
産土の大神さまや鎮守の大神さまとしてお働きくださっていることも少なくありません」
ということです。
本殿裏手に「神嶽山神苑」という庭園がありますが、入場は祈祷を受けた人に限定されています。
『秘録』18号で「寒川神社の後ろは森になっていて禁足地の池があります。そこが大事だということです」
と書いている場所です。
初期の特別セッションで、寒川神社から来られた神さまがヨレヨレになっていたという話がありました。
厄除けのスポットなので、人々のいろいろな念や厄を受けて、神さまが弱っていたわけです。
しかし、「一の宮の大神」となると、“誇り”があるというか、倒れそうなのに踏ん張って、
《我は一の宮の大神である》という矜持があったという話です。
その神さまはご開運されて元気になられました。
それで、人間はただ神さまに頼むばかりでなく、ご祭神のご開運をお祈りしたほうがいいとなりました。
その後、神業の進展で全国的に神社のご開運が進んだので、現在はパワーアップされています。
相模国は一の宮が寒川神社で、二の宮が川匂神社、
三の宮が比々多神社、四の宮が前鳥神社、
さらに一国一社の八幡宮としての平塚八幡宮が“五の宮格”です。
大山の山麓に、これらの重要な神社が集中しています。
そういう面でも、霊山としての大山の存在感が大きいのです。
神奈川県は現在、横浜の方が発展していますが、
昔は相模湾沿いの寒川や六所神社のある国府が中心だったわけです。
山田の話です。
「国や地域の重心は時代とともに移っていきます。
たとえば、武蔵国の国府は現在の府中市であり、武蔵国総社・大国魂神社が鎮座しています。
隣の国分寺市には国分寺・国分尼寺跡があります。
以前はこの地域が武蔵国の中心だったわけです。
現在は、東京では千代田区が中心地になっていますので、中心地は移動することがわかります。
相模国も古代は海老名市に国分寺・国分尼寺がありました。
鎌倉幕府が鎌倉市に幕府を構えてから鶴岡八幡宮が栄え、鶴岡八幡宮も相模国一の宮になりました。
さらに明治以降は横浜市が中心になりました。
ここに時霊(ときたま)の力を感じます」
今回の旅の感想
海の幸と山の幸、温泉にも恵まれた風光明媚な相模国は、
「豊かで、美(うま)し、うるわしいまほろばの地」でした。(@^^)/~~~